私がこの仕事を志したのは学生時代の度重なるケガがきっかけでした。
私は小・中・高と野球部に所属していました。
野球はそんなにうまくありませんでしたが、練習だけは熱心な選手でした。
しかし、高校時代、1年の夏に右肩関節の亜脱臼、2年の夏にも右肩関節亜脱臼、さらに2年の冬にも右足関節の骨折1回と3度の大きなケガをしてしまいました。
満足に練習もできず、もちろん試合にも出場できませんでした。
なかなか思うように練習できないと「何で自分だけこんな不幸な目に遭うんだろうか」
「もう大好きだった野球を辞めようかな」
と自暴自棄になったのは1度や2度ではありませんでした。
あれは忘れもしない高2の冬、スライディングを失敗して右足首に体重が乗り、足首がバキっと鈍い音がして、そのまま立てなくなってしまいました。すぐに病院に行きました。
診断結果は「右足関節外果骨折」
これからの春の大会に向けて調整は順調だっただけに頭は真っ白になりました。
「またか、、、」
その後は3週間ギプス固定と松葉杖歩行を余儀なくされました。
さすがに気持ちが折れそうになりましたが、幸い夏の大会には間に合うとのこと。
すぐに気持ちを切り替え、右足は使えませんが、やれる範囲で夏に向けて準備しようと思い、s一抹の望みをかけ下半身、体幹のウェイトトレーニングはしっかりやりました。
ちょうどこの頃、進路の事を考えなければならない時期でした。特にこれといってやりたいことがなかった自分は、何気なく専門学校の案内雑誌をパラパラと見ていましたら、ある医療系の専門学校に「リハビリ」「理学療法士」というのがありました。
「ふ~ん、こういう仕事もいいなぁ」と軽い気持ちでその学校の資料請求をしました。
後日、自宅にその学校の資料が届きました。その学校は看護師、理学療法士、診療放射線技師などの医療系の総合的な学校でした。その中で「はり師、きゅう師」「柔道整復師」というのがありました。その瞬間背中に電撃が落ちました。
「そういえば誰もが知る大きな病院で手術をしなければ治らないと言われた右肩が試合に出られるまで回復したのは間違いなく鍼治療のおかげだった。」
「ケガで落ち込んでいる自分を心身共にケアをしてくれたのはお医者さんではなく、整骨院の先生だった。」
「この高校時代の度重なるケガにも何か意味があるのではないか」
「こんな悔しい思いは自分だけでたくさんだ」
「野球ではなかなか芽がでなかったが、がんばれば自分でもできるんじゃないか」
「今度は治される側から、自分が体のことをしっかり学んで自分のように痛みで悩み、やりたいことができない人を救えるようになりたいと、、、」
その後、高3の野球人生最後の夏の大会直前、努力が認められて初めて1ケタの背番号5番を頂きましたが、右足首の回復も芳しくなく(当時通院していた地元の病院ではギプス固定のみでその後のリハビリなどは特にありませんでした)、それをかばってか、この時初めて腰痛も発症し、また腰が痛いので手投げになり、さらに右肩の痛みも再発し、まさに満身創意で最後の夏に臨みました。
さすがにもうここらで潮時だと思いましたが野球は高校で辞めると決めていたので、痛みを堪えて最後までやりきろうと思いました。
私達の学校は大阪の公立校で甲子園には行けるレベルではありませんでしたが、公立の中ではそこそこ強かったのでベスト8を目標にみんなで頑張っていました。
当時はPL学園、上宮、近大付属などが強かったです。
今はもうありませんが、かつて高校野球の聖地と言われた森ノ宮の日生球場で1回戦が始まりました。
しかしいつもならコールドで勝てるであろう相手に気の緩みか、まさかの初戦敗退、、、
私達の最後の夏はあっけなく終わりました。
悔しいだけの私の高校野球時代でしたが、「治療家になって自分みたいにケガで困っている人々を救いたい」という思いは衰えるばかりか、日に日に強くなっていきました。
残念ながら現役では、はりきゅうの専門学校の受験に失敗しましたが、1年後、大阪の吹田市にある明治東洋医学院専門学校に入学し、3年後には鍼灸師の国家試験を一発合格し、更に3年後にも柔道整復師の国家試験にも一発合格しました。
その後、豊中市の鍼灸整骨院で4年間勤務させていただき、そこでは主に鍼灸治療、マッサージ、整体、テーピングなどを学びました。
淀川区の内科では2年間勤務させていただき、主に内科的疾患の鍼灸治療、老人医療、在宅医療などを学びました。
住吉区の整形外科では1年半勤務させていただき、主に整形外科診断法、後療法、レントゲン読影法などを学びました。
最後の城東区の病院では6年間勤務させていただき、主に急性外傷の整復、固定、スポーツ整形、手術後のリハビリテーション、トレーニング指導、投球指導などを学びました。
それらと並行して休日にはカイロプラクティック、整体など様々なセミナーにも参加しました。
平成19年には米国認定のスポーツトレーナーの資格も取得しました。
ちょうどこの頃より自分の想い描いていた理想の治療家像に近づいてきました。
私が思い描く理想の治療家像とは、柔道整復師として骨折、脱臼などの急性の外傷性のケガをしっかりと整復、固定でき、またその後のリハビリのお手伝いもでき、競技復帰まで全力でサポートできること。
鍼灸師としては運動器疾患はもちろん、東洋医学的に予防治療もでき、内科的疾患や難病にも対応できること。
整形外科医並みの診断力。
理学療法士並みのリハビリテーション力。
骨格の矯正などの姿勢矯正もでき、再発予防として日常のストレッチやトレーニング指導、生活指導、栄養指導などもできること。
即ち私を頼って来ていただいたご縁のあった患者さんをトータルでサポートできること。
それらを思い描いて勉強してきました。
病院勤務の最後の1年ぐらいでそれらの形ができてきたので、「よし、開業しよう」と決意しました。
平成23年2月7日、ご縁のあった奈良県王寺町で「はり灸接骨院まほろば」を開院させていただきました。
まほろばとは「素晴らしい場所」 「優れた美しい場所」 「実り豊かな土地」という意味があります。
以前から趣味で県内の山や神社仏閣、名所などを巡っているうちに「まほろば」という古語に出逢いました。自分のありふれた山本という名前を屋号にするより、この素晴らしい言葉を屋号にした方が、奈良らしくて地域の皆様になじんでいただけるのではないかと思い至り、決めました。
実は私より先に友人が大阪の江坂で「まほろば鍼灸整骨院」という治療院を開業しておりまして、屋号がかぶるがどうしてもこの「まほろば」という屋号を使わしてほしいと大阪まで出向き、頭を下げた経緯があります。
もちろん友人は快諾してくれました。
2,011年平城遷都1,300年の年に長男が誕生しました。奈良らしく悠久の都と書いて「悠都 はると」と名付けました。
その後、趣味が高じて奈良まほろば検定1級の試験も合格しました。
2,015年には全国紙「anan」にも掲載されるまでになりました。
現在、地域の皆様のおかげではり灸接骨院まほろばは成り立っておりますが、この広い世の中で奇跡的に出会え、ご縁のあったあなた様には
「私のような悔しい思いはさせたくない」、「自分のやりたいことを存分にやってほしい」、「患者さんの痛みは私の痛みである」という思いを胸に刻み、初心を忘れず日々治療活動に励んでおります。
当院は同業他院様よりおそらく様々な治療法、美容法を提供しておりますが、それらのテクニックは枝葉末節にしか過ぎません。
泳げる人には泳げない人の気持ちなんか分かりません。
私はケガの功名といいますか、学生時代の経験、挫折がなかったら間違いなく今の仕事には就いていませんでした。
しかし、だからこそあなた様のお悩みに寄り添い、共感することができるのです。
このあなた様の「気持ちが分かる」ということが当院の最大の強みでございます。
今後ともあなた様のかかりつけセラピストとして、どうぞよろしくお願いいたします。
長くなりましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。